小説というには、拙い読み物などを載せてあります。
BLというよりJUNE傾向なので、禁は設けておりませんが、同性同士の恋愛模様を綴っていますので、
苦手と思われる方はお戻りください。
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三章 愛はアダージョで
愁と暮すようになって、静は毎朝愁が揃えてくれた物をそのまま身に付けて出社する。
朝、鏡に映る自分が、何となく生き生きしているように見えて、自信が持てるような気がして。
そのせいか、相手が上役であろうが年長であろうが臆することなく、自分の仕事を熟す事が出来た。
もし、自分が人より少し良く見えていたのだとしたら……。そして、ふと思う。
全部、愁のおかげ……それなら自分は?
今朝は、朝になって芹華がお弁当だと言い出した。愁はお弁当作りで忙しく、
静の着替えまでは手が回らなかった。だから静は、クローゼットの中から適当に自分で選んで…服を着た。
それなのに…今日は夕刻から、社長のお供で大九星公司商会のレセプションに出席しなくてはならない。
その事に思い当り静は愕然とした。
しかも、カクテルならまだしもディナーだというのに、このまま社長の同伴で出席するわけにはいかない。
どうしよう…一度家に戻って着替えて…とも思ったが、愁は学校で多分家には居ないだろう。
そう思った途端、何もかもが不安に思えた。
そのせいか、決心して同じ秘書課の同寮に掛けた声までもが、不安そうに聞こえた。
「佐藤君、君確か今日の午後予定入ってないよね…」
「えぇ、常務は出張で○○さんが同行していますから、僕は予定がありませんが…」
「それじゃ、僕から社長にお願いするけど…。もしOKだったら、今日の夕刻からのレセプション、
申し訳ないけど、君が社長のお供で出席してもらえないかな」
「え? でも…源さんでないと。なにしろ、大九星公司の陳社長は、源さんを気に入っていますからね」
「そんな事ないよ。ようは中国語が解かれば良いんだから。中国語は僕なんかより、君のほうがはるかに上手だ。
大丈夫、社長には僕から事情を説明して許可をもらうから、なんとか、お願い出来ないかな…」
「そういう事でしたら、僕は構いませんが……源さん、元気ないけど何かあったんですか?」
「ありがとう、助かったよ。ちょっと朝から体調が悪くて…ディナーは無理そうなんだ。
急で申し訳ないけど、それじゃ宜しくお願いします。あとこれ、簡単なメモ書きだけど、
向こうで接触しそうな人物の簡単なデータ。参考までに渡しておくよ」
静はそう言うと、手書きのメモを佐藤に渡した。メモには、主催者側人物数人の名前が書いてある。
大九星公司は中東某国と太いパイプを持ち、天然ガス田をも所有していると噂される中国屈指の商社である。
その大九星公司のレセプションには、様々な会社の中心人物は勿論政治家までも招待されていた。
そして、静の務めるOS化学にとっては、当然大九星公司は大切な取引先であった。
その為社長の渡辺は、大九星公司に赴くときは中国語が堪能な静を同伴させるようにしていた。
それに、大九星公司の董事陳はどういう訳か静の事を気に入り、静と他愛ない話をするのを喜んだ。
だが今回は、自分の都合で職務を放棄する…サラリーマンとして許されない事と判っていても、
静は、どうしてもレセプションに出席する気持ちにはなれなかった。
だから、自分の穴埋めだけは…そう思い同僚に代役を頼むと、あとは社長の承諾を得るだけ…と。
コンコン、ドアを二つ叩くと中から、どうぞ…渡辺の声が聞こえた。
その声でドアを開き、中に入ると社長の渡辺が、書類に目を落していた顔を上げ…。
「どうした?まだ時間には早いのじゃ…」
そう言った途端目をしばたかせ…クツクツクツ、と笑い出した。そして、
「どういう風の吹きまわしかね。私の自慢の秘書が、今日はずいぶんと目を楽しませてくれるね」
開いていた書類をパサッと閉じると、デスクを離れ前のソファーに移動する。静は、ドアの前に立ったまま、
「も、申し訳ありません。私、今日は…その…朝から体調が優れず…あ、あの…」
直立不動で答える。するとソファーに座った渡辺が、にやにやと笑いながら眺めるような目で静を見つめ。
「ふ~む。それで? どうしたいのかな」
やはり、何処となく楽しそうな声で言った。
そして静は…と言えば、いつもなら渡辺の側まで進み出るのだが、どういう訳か足が動かず、
「は、はい…。早退…を…で、後は…佐藤さんに…その、お願い…」
言葉までがスムースに出て来なくて、しどろもどろの態でやっとそれだけ言う。
すると渡辺は静を見つめたまま、静の言わんとする事を汲み取ったかのように小さく頷いた。
「判った。レセプションには、佐藤君を連れていけば良いのだな?」
本来なら逆であるべきはずの、渡辺の気遣うような言葉に静の焦りは益々濃くなり、
「はい! 本当に、す……いえ、申し訳ありません!! 明日は、身体を…あ、いえ…体調を整えて…」
答える声に妙に力が入る。それが猶更可笑しさを誘ったのか、渡辺が
「うむ…頼んだよ。何事も過ぎないように。ほどほどに…だな」
まるでからかうように言うと、それから少しだけ表情を引き締め 静に向かって手招きをした。
そして静は、その手の先から出ている糸に引き寄せられるかのように、渡辺の座る椅子の側まで進み出る。
すると渡辺が、今度は自分の前の椅子を示し其処に座るように促した。
浅く腰掛けた椅子で、奇妙な程に硬直した体勢で座っている静は、
社長室に呼びつけられ、異様に緊張している新入社員ように初々しく見えた。
それが渡辺には、自分の秘書の目新しい一面に見えるのか、どこか楽しそうに静を見つめたまま言う。
「ところで、源君。今日の穴埋めではないが、一度食事に付き合ってくれないか?」
その思いがけない言葉に、静は一瞬昼食の事かと思った。
「は、はい? これから食事…ですか?」
「いや、プライベートの夕食に招待したいのだがね。君と君のファミリーを…どうかね」
と…静の思惑とは違うどうにも理解しがたい事を、それこそ何気ない口ぶりで言い出した。
それには緊張も解けたというか、呆気にとられたと言うかで、静がポカンとした顔で
「ファミリー? って、私の母をですか?」 こちらも理解しがたい事を聞き返した。
「まさか、親御さんに挨拶という年でもなかろう」
「は…はぁ……でしたら…」
「今更、独身ですなどと惚けるつもりではないだろうね。私は、秘書としての君が完璧なのは、
君の能力も然ることながら、黒子の力も大きいのでは…そう思ったのだがね。
だから、是非一度会って礼が言いたいと思うのだよ」
渡辺のその言葉で、愁の存在がばれている…そう思った途端、恐怖にも似た緊張が全身を走り抜けた。
なぜ判ったのか…考えてみても判らなかった。だからと言って、渡辺に聞けることでも無い。
ただ、布石はあったのかも知れない。それが、今日の自分を見て確信に変わった…そんな気がした。
愁と暮すようになって、静は毎朝愁が揃えてくれた物をそのまま身に付けて出社する。
朝、鏡に映る自分が、何となく生き生きしているように見えて、自信が持てるような気がして。
そのせいか、相手が上役であろうが年長であろうが臆することなく、自分の仕事を熟す事が出来た。
もし、自分が人より少し良く見えていたのだとしたら……。そして、ふと思う。
全部、愁のおかげ……それなら自分は?
今朝は、朝になって芹華がお弁当だと言い出した。愁はお弁当作りで忙しく、
静の着替えまでは手が回らなかった。だから静は、クローゼットの中から適当に自分で選んで…服を着た。
それなのに…今日は夕刻から、社長のお供で大九星公司商会のレセプションに出席しなくてはならない。
その事に思い当り静は愕然とした。
しかも、カクテルならまだしもディナーだというのに、このまま社長の同伴で出席するわけにはいかない。
どうしよう…一度家に戻って着替えて…とも思ったが、愁は学校で多分家には居ないだろう。
そう思った途端、何もかもが不安に思えた。
そのせいか、決心して同じ秘書課の同寮に掛けた声までもが、不安そうに聞こえた。
「佐藤君、君確か今日の午後予定入ってないよね…」
「えぇ、常務は出張で○○さんが同行していますから、僕は予定がありませんが…」
「それじゃ、僕から社長にお願いするけど…。もしOKだったら、今日の夕刻からのレセプション、
申し訳ないけど、君が社長のお供で出席してもらえないかな」
「え? でも…源さんでないと。なにしろ、大九星公司の陳社長は、源さんを気に入っていますからね」
「そんな事ないよ。ようは中国語が解かれば良いんだから。中国語は僕なんかより、君のほうがはるかに上手だ。
大丈夫、社長には僕から事情を説明して許可をもらうから、なんとか、お願い出来ないかな…」
「そういう事でしたら、僕は構いませんが……源さん、元気ないけど何かあったんですか?」
「ありがとう、助かったよ。ちょっと朝から体調が悪くて…ディナーは無理そうなんだ。
急で申し訳ないけど、それじゃ宜しくお願いします。あとこれ、簡単なメモ書きだけど、
向こうで接触しそうな人物の簡単なデータ。参考までに渡しておくよ」
静はそう言うと、手書きのメモを佐藤に渡した。メモには、主催者側人物数人の名前が書いてある。
大九星公司は中東某国と太いパイプを持ち、天然ガス田をも所有していると噂される中国屈指の商社である。
その大九星公司のレセプションには、様々な会社の中心人物は勿論政治家までも招待されていた。
そして、静の務めるOS化学にとっては、当然大九星公司は大切な取引先であった。
その為社長の渡辺は、大九星公司に赴くときは中国語が堪能な静を同伴させるようにしていた。
それに、大九星公司の董事陳はどういう訳か静の事を気に入り、静と他愛ない話をするのを喜んだ。
だが今回は、自分の都合で職務を放棄する…サラリーマンとして許されない事と判っていても、
静は、どうしてもレセプションに出席する気持ちにはなれなかった。
だから、自分の穴埋めだけは…そう思い同僚に代役を頼むと、あとは社長の承諾を得るだけ…と。
コンコン、ドアを二つ叩くと中から、どうぞ…渡辺の声が聞こえた。
その声でドアを開き、中に入ると社長の渡辺が、書類に目を落していた顔を上げ…。
「どうした?まだ時間には早いのじゃ…」
そう言った途端目をしばたかせ…クツクツクツ、と笑い出した。そして、
「どういう風の吹きまわしかね。私の自慢の秘書が、今日はずいぶんと目を楽しませてくれるね」
開いていた書類をパサッと閉じると、デスクを離れ前のソファーに移動する。静は、ドアの前に立ったまま、
「も、申し訳ありません。私、今日は…その…朝から体調が優れず…あ、あの…」
直立不動で答える。するとソファーに座った渡辺が、にやにやと笑いながら眺めるような目で静を見つめ。
「ふ~む。それで? どうしたいのかな」
やはり、何処となく楽しそうな声で言った。
そして静は…と言えば、いつもなら渡辺の側まで進み出るのだが、どういう訳か足が動かず、
「は、はい…。早退…を…で、後は…佐藤さんに…その、お願い…」
言葉までがスムースに出て来なくて、しどろもどろの態でやっとそれだけ言う。
すると渡辺は静を見つめたまま、静の言わんとする事を汲み取ったかのように小さく頷いた。
「判った。レセプションには、佐藤君を連れていけば良いのだな?」
本来なら逆であるべきはずの、渡辺の気遣うような言葉に静の焦りは益々濃くなり、
「はい! 本当に、す……いえ、申し訳ありません!! 明日は、身体を…あ、いえ…体調を整えて…」
答える声に妙に力が入る。それが猶更可笑しさを誘ったのか、渡辺が
「うむ…頼んだよ。何事も過ぎないように。ほどほどに…だな」
まるでからかうように言うと、それから少しだけ表情を引き締め 静に向かって手招きをした。
そして静は、その手の先から出ている糸に引き寄せられるかのように、渡辺の座る椅子の側まで進み出る。
すると渡辺が、今度は自分の前の椅子を示し其処に座るように促した。
浅く腰掛けた椅子で、奇妙な程に硬直した体勢で座っている静は、
社長室に呼びつけられ、異様に緊張している新入社員ように初々しく見えた。
それが渡辺には、自分の秘書の目新しい一面に見えるのか、どこか楽しそうに静を見つめたまま言う。
「ところで、源君。今日の穴埋めではないが、一度食事に付き合ってくれないか?」
その思いがけない言葉に、静は一瞬昼食の事かと思った。
「は、はい? これから食事…ですか?」
「いや、プライベートの夕食に招待したいのだがね。君と君のファミリーを…どうかね」
と…静の思惑とは違うどうにも理解しがたい事を、それこそ何気ない口ぶりで言い出した。
それには緊張も解けたというか、呆気にとられたと言うかで、静がポカンとした顔で
「ファミリー? って、私の母をですか?」 こちらも理解しがたい事を聞き返した。
「まさか、親御さんに挨拶という年でもなかろう」
「は…はぁ……でしたら…」
「今更、独身ですなどと惚けるつもりではないだろうね。私は、秘書としての君が完璧なのは、
君の能力も然ることながら、黒子の力も大きいのでは…そう思ったのだがね。
だから、是非一度会って礼が言いたいと思うのだよ」
渡辺のその言葉で、愁の存在がばれている…そう思った途端、恐怖にも似た緊張が全身を走り抜けた。
なぜ判ったのか…考えてみても判らなかった。だからと言って、渡辺に聞けることでも無い。
ただ、布石はあったのかも知れない。それが、今日の自分を見て確信に変わった…そんな気がした。

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名前のないコスモス
喬臣が会ったというその場所から手繰り、成瀬のいるこの店を探し出したのは二日前だった。
何をおいても、真っ先に会いに行きたかった。それを堪えて外から様子を窺い、
店の中に確かに成瀬の姿を確認した時、店に飛び込んで思いっきり抱きしめたいと思った。
だが…それをしなかったのは…成瀬が、やはり以前の成瀬とは変わっているように見えたからだった。
いったい、成瀬に何があったというのか…少しでも様子が判ればと、それとなく周りで話を聞いてみると、
店というのは、以前地元の旧家の旦那というのが、愛人にやらせていた飲み屋だったが、
その愛人が三年ほど前に、客の一人と手に手を取って行方をくらましてしまった。
その為店は閉店し、一年ほどそのままになっていたのを、二年前次男坊が喫茶店として開店させた。
そして成瀬は、店の裏にあるプレハブに寝泊まりしながら、一人で店を切り盛りしている。
もっとも その次男坊…達也というのが足繁く通って来ては、二人で店に出ている事もあるらしく、
以前は客のいなかった店も、今では評判の良い店として街の人達にも知られていた。
コーヒー、紅茶はもちろん、軽食が中々好評で特にランチのビーフシチュウが絶品だという事で。
昼の時間は若い女性達でいつも万席だと言うのを聞いて、知晴は些か 面白くない気もした。
それでも、成瀬が無事だった……その事には感謝したいと思った。
「穏やかで腰が低くて、誰にでも優しい。その上あの容姿だろう。
若い娘は勿論オバサン連中まで噂しているよ。誰が、マスターを射止めるかって…さ」
酒屋の親父はそう言って笑っていた。
【ふざけるな…女なんかに扱える代物じゃないんだよ、成瀬は】
そんな事を思いながら、知晴は大凡の状況を頭に入れて、成瀬に会うべく店の前に立った…が
成瀬の瞳に写った自分の姿は、その辺の女どもと少しも変わらない事を知らされた。
カウンターの中の仕事が終わったのか、成瀬はフロアーに出ると、幾つもないボックス席のテーブルに、
ナフキンスタンドを置いていく。そして、知晴の座っているテーブルの上にも。
目の前に伸びた成瀬の手…幼い時には母の手となり、兄弟の手となって自分を護ってくれたその手が、
今は頼りないほどに華奢な、愛しいだけの手。この手を掴んで、有無を言わせず抱き寄せたら…。
ふと、そんな衝動に駆られながら、多分この手は、今は見知らぬ自分に、ありったけの力で抗うだろう。
成瀬とバトルか……今なら勝てるかな…でも多分、絶対に勝てないだろう。
それは、愛する者と見知らぬ者…その違い…知晴はそんな気がした。
「すみませんね。早くにお邪魔して」
知晴は想いを隠しさりげない顔で声をかける。すると成瀬は、笑みを浮かべて見知らぬ客に答える。
「いいえ。こちらこそ、お待たせして申し訳御座いません」
「見事なコスモスですね。あなたが育てたのですか」
「ありがとうございます。 特に育てたというほどでないのですよ。ただ、空き地が広くて寂しいから…。
例に種をまいて見ただけです。そうしましたら綺麗に咲いてくれたので…正直、私も驚きました」
成瀬は、本当に意外だった……というような表情を見せ、それから窓の外で揺れるコスモスに目をやった。
少しだけ細めた目も口元に浮かべた笑みも、嘗ては自分に向けた表情のように愛しげに優しい。
だがその笑顔は、風に揺れるコスモスにも似て頼りなげに見えた。
「あの…この店は…もう長いのですか?」
「そうですね…私がお世話になって二年になります」
「以前も…どこかで?」
「……いいえ、此処が始めて……」
「そうですか。とても、良い店だと聞いたものですから」
「ありがとうございます。あっ、御注文承りましょうか」
一言二言答えてから、成瀬は立ち話をしている事に気付いたのか慌てたように聞いた。そして知晴は、
「それじゃ、キャラメルホットとクラブサンドイッチ。出来れば…あと、ヨーグルトとカモミールティーも」
成瀬がいつも知晴のために作ってくれた朝食のメニューを答える。ただ最後のカモミールは、
知晴のためのものでは無く、いつも成瀬のために知晴がいれてやったお茶。すると成瀬は、
「キャラメルホット。アロエヨーグルト…カモミール。カモミール…。あの…これらは…」
知晴の言ったオーダーを反復するように言いながら、それらの何かが心に引っかかりを感じたのか、
知晴をみつめる成瀬の瞳が不安そうに揺れた。
そして知晴もまた、成瀬の言葉に微かな引っ掛かりを覚えた。
自分はヨーグルトと言った。それなのに成瀬は、アロエヨーグルトと言い。
それは確かに、知晴の好きだったヨーグルトで成瀬お手製のヨーグルトでもあった。
記憶を失っていても、心の底に眠っているものが、無意識に出たのだとしたら。
成瀬を取り戻せるかも知れない…知晴は、この街に来て初めて希望の欠片を見たような気がした。
「すみません。無理を言って…。朝が早かったので、つい色々注文してしまいました。
コーヒーと、あと何か腹の足しになるものを…お願いします」
「あの…お客様…」
「実は今のメニューは、僕の大切な人が僕の為に毎朝作ってくれた朝食なんです。
野菜を沢山挟んで、ベーコンはカリカリに…卵は半熟で…とっても美味しいんです。
朝寝坊の僕の為にいつも……。ちょっと思い出してしまって、申し訳ありませんでした」
「いえ…あの…此方へは通りすがりですか…」
「違います。用事があったもので…ですから、暫く滞在します」
知晴の言った言葉で、なぜか成瀬の顔がほっとしたように見えた。そして今度は、
「もし、宜しかったら…次にいらして頂けたら、その時にはお出しできるようにしておきますが…」
微かな期待に揺れる瞳で、声も小さく言った。
まさか、そんな言葉を聞けるとは思ってもいなかった知晴は、思わず椅子から立ち上がり、
「本当ですか? 嬉しいな。それじゃ明日…いや、明日から毎日来ます!絶対、必ず!」
天にも舞い上がる思いで、力を込めて言う。
「はい? 毎日…ですか?」
「はい!できれば朝晩でも」
成瀬は驚いたように目を見開き、そしてふっと表情を緩めると、本当に可笑しい…そんな顔でクスクスと笑った。
その笑顔は、いつもそうであれと願いながら、知晴が消してしまった知晴の大好きな笑顔だった。
喬臣が会ったというその場所から手繰り、成瀬のいるこの店を探し出したのは二日前だった。
何をおいても、真っ先に会いに行きたかった。それを堪えて外から様子を窺い、
店の中に確かに成瀬の姿を確認した時、店に飛び込んで思いっきり抱きしめたいと思った。
だが…それをしなかったのは…成瀬が、やはり以前の成瀬とは変わっているように見えたからだった。
いったい、成瀬に何があったというのか…少しでも様子が判ればと、それとなく周りで話を聞いてみると、
店というのは、以前地元の旧家の旦那というのが、愛人にやらせていた飲み屋だったが、
その愛人が三年ほど前に、客の一人と手に手を取って行方をくらましてしまった。
その為店は閉店し、一年ほどそのままになっていたのを、二年前次男坊が喫茶店として開店させた。
そして成瀬は、店の裏にあるプレハブに寝泊まりしながら、一人で店を切り盛りしている。
もっとも その次男坊…達也というのが足繁く通って来ては、二人で店に出ている事もあるらしく、
以前は客のいなかった店も、今では評判の良い店として街の人達にも知られていた。
コーヒー、紅茶はもちろん、軽食が中々好評で特にランチのビーフシチュウが絶品だという事で。
昼の時間は若い女性達でいつも万席だと言うのを聞いて、知晴は些か 面白くない気もした。
それでも、成瀬が無事だった……その事には感謝したいと思った。
「穏やかで腰が低くて、誰にでも優しい。その上あの容姿だろう。
若い娘は勿論オバサン連中まで噂しているよ。誰が、マスターを射止めるかって…さ」
酒屋の親父はそう言って笑っていた。
【ふざけるな…女なんかに扱える代物じゃないんだよ、成瀬は】
そんな事を思いながら、知晴は大凡の状況を頭に入れて、成瀬に会うべく店の前に立った…が
成瀬の瞳に写った自分の姿は、その辺の女どもと少しも変わらない事を知らされた。
カウンターの中の仕事が終わったのか、成瀬はフロアーに出ると、幾つもないボックス席のテーブルに、
ナフキンスタンドを置いていく。そして、知晴の座っているテーブルの上にも。
目の前に伸びた成瀬の手…幼い時には母の手となり、兄弟の手となって自分を護ってくれたその手が、
今は頼りないほどに華奢な、愛しいだけの手。この手を掴んで、有無を言わせず抱き寄せたら…。
ふと、そんな衝動に駆られながら、多分この手は、今は見知らぬ自分に、ありったけの力で抗うだろう。
成瀬とバトルか……今なら勝てるかな…でも多分、絶対に勝てないだろう。
それは、愛する者と見知らぬ者…その違い…知晴はそんな気がした。
「すみませんね。早くにお邪魔して」
知晴は想いを隠しさりげない顔で声をかける。すると成瀬は、笑みを浮かべて見知らぬ客に答える。
「いいえ。こちらこそ、お待たせして申し訳御座いません」
「見事なコスモスですね。あなたが育てたのですか」
「ありがとうございます。 特に育てたというほどでないのですよ。ただ、空き地が広くて寂しいから…。
例に種をまいて見ただけです。そうしましたら綺麗に咲いてくれたので…正直、私も驚きました」
成瀬は、本当に意外だった……というような表情を見せ、それから窓の外で揺れるコスモスに目をやった。
少しだけ細めた目も口元に浮かべた笑みも、嘗ては自分に向けた表情のように愛しげに優しい。
だがその笑顔は、風に揺れるコスモスにも似て頼りなげに見えた。
「あの…この店は…もう長いのですか?」
「そうですね…私がお世話になって二年になります」
「以前も…どこかで?」
「……いいえ、此処が始めて……」
「そうですか。とても、良い店だと聞いたものですから」
「ありがとうございます。あっ、御注文承りましょうか」
一言二言答えてから、成瀬は立ち話をしている事に気付いたのか慌てたように聞いた。そして知晴は、
「それじゃ、キャラメルホットとクラブサンドイッチ。出来れば…あと、ヨーグルトとカモミールティーも」
成瀬がいつも知晴のために作ってくれた朝食のメニューを答える。ただ最後のカモミールは、
知晴のためのものでは無く、いつも成瀬のために知晴がいれてやったお茶。すると成瀬は、
「キャラメルホット。アロエヨーグルト…カモミール。カモミール…。あの…これらは…」
知晴の言ったオーダーを反復するように言いながら、それらの何かが心に引っかかりを感じたのか、
知晴をみつめる成瀬の瞳が不安そうに揺れた。
そして知晴もまた、成瀬の言葉に微かな引っ掛かりを覚えた。
自分はヨーグルトと言った。それなのに成瀬は、アロエヨーグルトと言い。
それは確かに、知晴の好きだったヨーグルトで成瀬お手製のヨーグルトでもあった。
記憶を失っていても、心の底に眠っているものが、無意識に出たのだとしたら。
成瀬を取り戻せるかも知れない…知晴は、この街に来て初めて希望の欠片を見たような気がした。
「すみません。無理を言って…。朝が早かったので、つい色々注文してしまいました。
コーヒーと、あと何か腹の足しになるものを…お願いします」
「あの…お客様…」
「実は今のメニューは、僕の大切な人が僕の為に毎朝作ってくれた朝食なんです。
野菜を沢山挟んで、ベーコンはカリカリに…卵は半熟で…とっても美味しいんです。
朝寝坊の僕の為にいつも……。ちょっと思い出してしまって、申し訳ありませんでした」
「いえ…あの…此方へは通りすがりですか…」
「違います。用事があったもので…ですから、暫く滞在します」
知晴の言った言葉で、なぜか成瀬の顔がほっとしたように見えた。そして今度は、
「もし、宜しかったら…次にいらして頂けたら、その時にはお出しできるようにしておきますが…」
微かな期待に揺れる瞳で、声も小さく言った。
まさか、そんな言葉を聞けるとは思ってもいなかった知晴は、思わず椅子から立ち上がり、
「本当ですか? 嬉しいな。それじゃ明日…いや、明日から毎日来ます!絶対、必ず!」
天にも舞い上がる思いで、力を込めて言う。
「はい? 毎日…ですか?」
「はい!できれば朝晩でも」
成瀬は驚いたように目を見開き、そしてふっと表情を緩めると、本当に可笑しい…そんな顔でクスクスと笑った。
その笑顔は、いつもそうであれと願いながら、知晴が消してしまった知晴の大好きな笑顔だった。

「吉祥天…」で、若干ネタバレした部分もありますが、神谷はこちらでもチラッと登場します 。
尚、更新は週末のみとなります^^
羽柴知晴(ちはる)(二十歳・主)× 成瀬美章(みゆき)(二十八歳・従)
コスモスは嫋やかに笑う-1
山間の町を吹き抜ける澄んだ秋風。それを受けて、水やりを終えたばかりのコスモスが、
薄紅色の花びらを陽の光にキラキラと輝かせ、たおやかに咲き乱れていた。
余りにも見事なコスモスの群生に、羽柴知晴は暫し足を止めてその光景に見とれる。
それから、水滴を残したままの踏み石を渡り、その先に建っている小さな喫茶店の前に立った。
扉の前で、胸一杯に吸い込んだ空気を大きく吐き出し。取手に手を掛けるとゆっくりと扉を引いた。
チリン…と澄んだ音が、夏の名残を告げるかのように響きわたり。
開店前の店内に漂うコーヒーの香りに、胸を締め付けられるような懐かしさを感じた。
それから中に足を踏み入れ、そう広くはない店内を見回す。
黒く太い梁が剥きだしの高い天井。重厚な面持ちでたっている柱と今は珍しい漆喰の壁。
それらが、しっとりと落ち着いた空間を造り上げ、この建物が生きてきた長い年月を表していた。
そして唐突に、亡くなった祖父を思いだした。
背負いきれないほどに大きなものを、知晴の肩に残し逝った祖父を。
だが、それにも勝るものを残してくれたのも事実で、今知晴はその為に此処まで来たのだった。
店内に人の気配は無かったが、カウンターの奥にあるドアが開いているところを見ると、
店の人間は、外にでも居るのかも知れない。羽柴知晴は、其処だけは新そうな床にコツコツと足音を響かせ、
カウンターが見渡せる、窓際の席に腰を降ろした。
幾分秋めいた日差しが、桟のある窓を通してテーブルと床にクロス模用の影を作っている。
その他愛ない光景までも、この店と此処に居るだろう人間にはとてもお似合いな気がした。
パタン…ドアの閉まる音がし、誰かがカウンターの中に入ってきた。
真っ白なシャツに、黒のエプロンをした男は背中まで伸びた髪を細い紐で束ね。
少し俯いた白い横顔が、この場所には場違いのようにも見え。やはり、しっくりと合っているようにも見えた。
その時、自分に注がれる視線に気付いたのか、男が顔を上げ此方に向いた。
一瞬驚いたような表情を見せて、それからふわりと微笑み…カウンターを出る。
そして、知晴の座っているテーブルの側まで近づくと…其処で真っ直ぐに知晴を見つめ 丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ご来店に気が付きませんで、大変失礼いたしました。
せっかくお越し頂きましたが当店は10時開店となっておりまして、只今準備中でございます。
申し訳御座いませんが暫くお待ち頂くか、もし御希望でしたら開店しているお店を、お教えいたしますが…」
涼やかな声ですらすらと……初めて見た客…に言う。
「いえ、迷惑でなければ 開店時間まで待たせてもらいたいのですが」
「そうですか。お構いも出来ませんが、それでも宜しければお待ちになってください。では、失礼致します」
以前より少し細くなったような気もするが、柔らかな物腰も丁寧な言葉遣いも変わっていない。
耳に優しい声も。けぶるような瞳も。それなのに、その瞳に写る知晴は赤の他人になっていた。
知晴を見ても、何の感情も表すことなく。さっきの驚きの表情は、誰も居ないと思っていた空間に、
図らずも人がいた為の驚き。 ただ、それだけの事なのだと悟った。
一週間ほど前、羽柴知晴は久し振りに高校の先輩、喬臣(たかおみ)と会った。喬臣とは、高校時代に色々あったが、
原因は全て知晴にあったのだから、喬臣が幸せそうにしていたのに知晴はほっとした。
それと同時に、改めて島崎に感謝する思いで一杯だった。
島崎が、喬臣を大切にしている事は喬臣の言葉の端々や、その表情から充分推測できた。
その喬臣に、亡くなった母親の実家に行った時、成瀬に似た人物を見掛けたと聞き。
知晴は、心臓が早鐘のように鳴り全身の血が怒涛の勢いで駆け巡るのを感じた。
「成瀬が!本当に成瀬をみたんですか!!」
知晴の賢幕に驚いたように喬臣は少し身体を仰け反らせ、目をしばたかせて…それでもはっきりとした声で言った。
「多分…そうじゃないかと。ただ……」
「ただ何ですか?」
「ごめん、正直言って自信ないんだ。ほんとに彼だったのかどうか、確信は持てなかったから」
「どう言う意味ですか。さっき成瀬だと言ったじゃないですか!」
「うん、僕はそう思ったんだけど…彼は、僕と顔を合わせたのに、全然気付かなかったみたいなんだ。
確かに、僕が彼にした事考えると、関わりたくないと思って無視されても仕方ないと思うけど、
でも…そういうのとも違っていた様な気がするんだ」
「………」
知晴が喬臣の言葉の意味を計りかねていると、喬臣はその時の記憶を手繰るようにして言葉を続けた。
「何となくだけど、彼の表情は全く赤の他人を見る顔…。
僕は彼の事を知っているけど、彼は僕の事なんか全く知らない…そんな感じだった。
だから、声を掛けそびれてしまって。それに……彼は、知り合いと一緒だったから」
「知り合い?」
「そう。はっきり言うけど、その時彼は高校生ぐらいの男の子と一緒に居た。一緒に買い物でもしていたのかな。
二人共手に食料品の入った袋を提げていて、彼の荷物を持ってやるとか要らないとか言いながら、
ふたりで楽しそうに笑っていた。羽柴くんごめんね、聞きたくない事まで聞かせて。
でも、あの人が成瀬さんだったら…たとえ別人だとしても、君は彼を探しに行くだろうからさ。
きちんと知っておいたほうが良いと思って……」
「つまり成瀬には、一緒に暮しているかも知れない人がいるって事…なんだ。
それに、先輩の事を覚えていないと言う事は、僕の事も……。そう言う事ですよね」
「ごめん…。ほんとにごめん。僕は、この事を君に言おうかどうか迷った。
迷って、どうしたらいいか判らなくて、涼介に相談したんだ。
涼介が以前、彼を好きだった事を知っていたから、本当は不安もあったけど…涼介の事を信じているから。
僕が一番大事だって言ってくれる涼介の言葉が信じられるから。だから、相談したんだ。
そしたら涼介は、僕が見たままをの事を羽柴くんに知らせてやるように言った。
後は、羽柴くんが自分で決めるだろうから、正直に話してやれ…って。 僕も涼介の言う通りだと思う。
本当に大切な人には幸せになって欲しい。その為にもありのまま話したほうが良いと思った。
羽柴君と成瀬さんの間に、何があったのか知らないけど、今でも君が、彼を大切に思っていることは知っている。
それに…僕が今、幸せでいられるのは羽柴君のおかげだから、君には心から感謝している。
だから、羽柴くん…成瀬さんを探して。探し出してあげて、お願い」
「先輩、僕は先輩に酷い事をしたのに…。その上成瀬にも……」
「羽柴君、自分のこと一番知らないのは自分なんだよね。他人には解る事、見えることが、
自分には解らなかったり見えなかったりする。それを気付かせてくれ見せてくれるのが、友達や恋人だと思う。
だから、自分自身を知るためにも…大切な人たちなんだ。涼介は僕にとって そう言う人だから。
成瀬さんにとっては、君がそうだと思うよ。だから、絶対捕まえて二度と手を離さないように。
それが、成瀬さんにとっては一番の幸せじゃないのかな。僕は、そう思うよ」
そしてその後…知晴は喬臣の言葉どおり、この街で成瀬を探し出した。
山間の町を吹き抜ける澄んだ秋風。それを受けて、水やりを終えたばかりのコスモスが、
薄紅色の花びらを陽の光にキラキラと輝かせ、たおやかに咲き乱れていた。
余りにも見事なコスモスの群生に、羽柴知晴は暫し足を止めてその光景に見とれる。
それから、水滴を残したままの踏み石を渡り、その先に建っている小さな喫茶店の前に立った。
扉の前で、胸一杯に吸い込んだ空気を大きく吐き出し。取手に手を掛けるとゆっくりと扉を引いた。
チリン…と澄んだ音が、夏の名残を告げるかのように響きわたり。
開店前の店内に漂うコーヒーの香りに、胸を締め付けられるような懐かしさを感じた。
それから中に足を踏み入れ、そう広くはない店内を見回す。
黒く太い梁が剥きだしの高い天井。重厚な面持ちでたっている柱と今は珍しい漆喰の壁。
それらが、しっとりと落ち着いた空間を造り上げ、この建物が生きてきた長い年月を表していた。
そして唐突に、亡くなった祖父を思いだした。
背負いきれないほどに大きなものを、知晴の肩に残し逝った祖父を。
だが、それにも勝るものを残してくれたのも事実で、今知晴はその為に此処まで来たのだった。
店内に人の気配は無かったが、カウンターの奥にあるドアが開いているところを見ると、
店の人間は、外にでも居るのかも知れない。羽柴知晴は、其処だけは新そうな床にコツコツと足音を響かせ、
カウンターが見渡せる、窓際の席に腰を降ろした。
幾分秋めいた日差しが、桟のある窓を通してテーブルと床にクロス模用の影を作っている。
その他愛ない光景までも、この店と此処に居るだろう人間にはとてもお似合いな気がした。
パタン…ドアの閉まる音がし、誰かがカウンターの中に入ってきた。
真っ白なシャツに、黒のエプロンをした男は背中まで伸びた髪を細い紐で束ね。
少し俯いた白い横顔が、この場所には場違いのようにも見え。やはり、しっくりと合っているようにも見えた。
その時、自分に注がれる視線に気付いたのか、男が顔を上げ此方に向いた。
一瞬驚いたような表情を見せて、それからふわりと微笑み…カウンターを出る。
そして、知晴の座っているテーブルの側まで近づくと…其処で真っ直ぐに知晴を見つめ 丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ご来店に気が付きませんで、大変失礼いたしました。
せっかくお越し頂きましたが当店は10時開店となっておりまして、只今準備中でございます。
申し訳御座いませんが暫くお待ち頂くか、もし御希望でしたら開店しているお店を、お教えいたしますが…」
涼やかな声ですらすらと……初めて見た客…に言う。
「いえ、迷惑でなければ 開店時間まで待たせてもらいたいのですが」
「そうですか。お構いも出来ませんが、それでも宜しければお待ちになってください。では、失礼致します」
以前より少し細くなったような気もするが、柔らかな物腰も丁寧な言葉遣いも変わっていない。
耳に優しい声も。けぶるような瞳も。それなのに、その瞳に写る知晴は赤の他人になっていた。
知晴を見ても、何の感情も表すことなく。さっきの驚きの表情は、誰も居ないと思っていた空間に、
図らずも人がいた為の驚き。 ただ、それだけの事なのだと悟った。
一週間ほど前、羽柴知晴は久し振りに高校の先輩、喬臣(たかおみ)と会った。喬臣とは、高校時代に色々あったが、
原因は全て知晴にあったのだから、喬臣が幸せそうにしていたのに知晴はほっとした。
それと同時に、改めて島崎に感謝する思いで一杯だった。
島崎が、喬臣を大切にしている事は喬臣の言葉の端々や、その表情から充分推測できた。
その喬臣に、亡くなった母親の実家に行った時、成瀬に似た人物を見掛けたと聞き。
知晴は、心臓が早鐘のように鳴り全身の血が怒涛の勢いで駆け巡るのを感じた。
「成瀬が!本当に成瀬をみたんですか!!」
知晴の賢幕に驚いたように喬臣は少し身体を仰け反らせ、目をしばたかせて…それでもはっきりとした声で言った。
「多分…そうじゃないかと。ただ……」
「ただ何ですか?」
「ごめん、正直言って自信ないんだ。ほんとに彼だったのかどうか、確信は持てなかったから」
「どう言う意味ですか。さっき成瀬だと言ったじゃないですか!」
「うん、僕はそう思ったんだけど…彼は、僕と顔を合わせたのに、全然気付かなかったみたいなんだ。
確かに、僕が彼にした事考えると、関わりたくないと思って無視されても仕方ないと思うけど、
でも…そういうのとも違っていた様な気がするんだ」
「………」
知晴が喬臣の言葉の意味を計りかねていると、喬臣はその時の記憶を手繰るようにして言葉を続けた。
「何となくだけど、彼の表情は全く赤の他人を見る顔…。
僕は彼の事を知っているけど、彼は僕の事なんか全く知らない…そんな感じだった。
だから、声を掛けそびれてしまって。それに……彼は、知り合いと一緒だったから」
「知り合い?」
「そう。はっきり言うけど、その時彼は高校生ぐらいの男の子と一緒に居た。一緒に買い物でもしていたのかな。
二人共手に食料品の入った袋を提げていて、彼の荷物を持ってやるとか要らないとか言いながら、
ふたりで楽しそうに笑っていた。羽柴くんごめんね、聞きたくない事まで聞かせて。
でも、あの人が成瀬さんだったら…たとえ別人だとしても、君は彼を探しに行くだろうからさ。
きちんと知っておいたほうが良いと思って……」
「つまり成瀬には、一緒に暮しているかも知れない人がいるって事…なんだ。
それに、先輩の事を覚えていないと言う事は、僕の事も……。そう言う事ですよね」
「ごめん…。ほんとにごめん。僕は、この事を君に言おうかどうか迷った。
迷って、どうしたらいいか判らなくて、涼介に相談したんだ。
涼介が以前、彼を好きだった事を知っていたから、本当は不安もあったけど…涼介の事を信じているから。
僕が一番大事だって言ってくれる涼介の言葉が信じられるから。だから、相談したんだ。
そしたら涼介は、僕が見たままをの事を羽柴くんに知らせてやるように言った。
後は、羽柴くんが自分で決めるだろうから、正直に話してやれ…って。 僕も涼介の言う通りだと思う。
本当に大切な人には幸せになって欲しい。その為にもありのまま話したほうが良いと思った。
羽柴君と成瀬さんの間に、何があったのか知らないけど、今でも君が、彼を大切に思っていることは知っている。
それに…僕が今、幸せでいられるのは羽柴君のおかげだから、君には心から感謝している。
だから、羽柴くん…成瀬さんを探して。探し出してあげて、お願い」
「先輩、僕は先輩に酷い事をしたのに…。その上成瀬にも……」
「羽柴君、自分のこと一番知らないのは自分なんだよね。他人には解る事、見えることが、
自分には解らなかったり見えなかったりする。それを気付かせてくれ見せてくれるのが、友達や恋人だと思う。
だから、自分自身を知るためにも…大切な人たちなんだ。涼介は僕にとって そう言う人だから。
成瀬さんにとっては、君がそうだと思うよ。だから、絶対捕まえて二度と手を離さないように。
それが、成瀬さんにとっては一番の幸せじゃないのかな。僕は、そう思うよ」
そしてその後…知晴は喬臣の言葉どおり、この街で成瀬を探し出した。

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三章 愛はアダージョで
会社から帰るなり寝室に飛び込み、カバンをぽいと放りだし、
背広にネクタイ、ワイシャツまでも脱ぎ散らかしたまま、静はごろりとベッドに寝転んだ。
すると直ぐにドアが開き、愁が顔を覗かせる。 愁は、静の脱ぎ散らかした衣類に目を留めると、
あ~ぁ、という顔で、背広をハンガーに吊るしワイシャツを丸めて、クリーニング用の袋に入れ。
それから、ただいまも言わないで寝室に入り込んだ静に声をかけた。
「どうしたんですか、先輩。機嫌が悪そうですね。帰りも随分早いけど、なんかあったの?」
「べつに……何でも無い」
静は、幾分不貞腐れたように顔を背けると、プイと窓の外に目を向ける。
その様子が、慰めて欲しいと言わんばかりで…愁は、それが可愛らしくも可笑しくて…。
「そんな訳無いでしょうよ。ただいまも無しで、いきなりのふて寝は何でも無いとは言いませんよ」
そう言いながら、ベッドの端に腰を降ろすと静の頭に手を載せ、髪を撫でる。だが静はどうしたというのか、
「別に気にしなくて良いよ。ほっといてくれ」
そう言うと、またも愁の手を振り払うと枕を抱えて丸くなってしまった。
いつもなら、この辺りで機嫌は直る筈なのにかなり機嫌が悪い。愁は思い当る事があるかと考えてみるが、
朝出て行く時は、「行ってきます…」のキスまで交したのだから、当然心当たりなど無かった。だから、
「そんな事言われても気になりますよ。もしかして、何か嫌な事でもあったの?」
今度は肩に手を伸ばし、静の身体を自分の方に向かせようとした。すると静が、またも愁の手を振り払い、
いきなり、がばっと起き上がると愁に向き合う。そして、
「じゃ言うけど、愁はもう僕の事なんかどうでも良くなったんだ!」
静にしては滅多にないような強い口調で言った。だが愁には、その剣幕も然ることながら、
何より静の言っている意味が解らない。それでも、機嫌が悪いのは自分が原因らしい事だけは判った…が、
それがどうしてなのかさっぱり解らない愁は、
「はぁ…。でも、いきなり訳の解らない事を言い出して、一体どうしたっていうんです?先輩」
と、愁にしてみれば、呆れた、「はぁ…」と言ったのが、静には肯定と受け取られたのか、
「やっぱりそうだ!もう僕の事なんか何とも思ってないんだ!」
断定するように言うと、愁を見つめる目がみるみる潤みだす。そして、愁の驚いたような目が静を見つめ。
【あららら…涙まで浮かべちゃって……もしかして、本気でそう思っている?】
静の変な思い込みが半分可笑しくもあったが、そんな素振りは隠し一応真面目な顔で聞iいた。
「そんな事あるわけ無いでしょうに。なんで、そう思うわけ?」
だが静は、よほど嫌なことでもあったのか益々機嫌を損ね、
「もう良い! ほっとけよ!!」
言うなり、今度は布団に潜り込み頭まで隠れるほど、布団を引き上げてしまった。
何が原因なのか判らないが、今布団を引きはがしても恐らく静は何も言わないだろう…そんな気がして、
愁は、静が少し落ち着くのを待つことに決めた。だから、
「先輩…お茶でも入れておくから…落ち着いたら一緒に飲みましょうよ」
そう言うとドアを閉め、寝室から出て行った。
後に残された静は、布団に潜り込んだまま身体を丸め、ギュッと目を閉じていた。
そうしないと、溢れてくる涙を止められない。
訳もなく悲しかった。愁の顔を見た途端、それは堰を切ったように溢れ出し、辛くて、悲しくて。
どうしようもない不安と苛立ち…そんなものに押し潰されそうな自分が嫌だった。
自分の方が年上なのに、いつも愁に我が侭を言い甘えてしまう。
そんな自分は、いつかきっと愁の重荷になって…やがて見捨てられてしまう。
そんな事を考え始めると、涙は止まるどころか益々湧いてきて、布団から出る事が出来なかった。
今日、会社に着くなり最初に掛けられた言葉が、「おはよう」ではなく、「あら…どうしたんですか?」 だった。
それからは会う人毎に同じ言葉を投げかけられて、返事に困った。
自分では、どうもしない…いつもと同じ…はずなのに…なぜ皆が同じことを言うのか解らなかった。
だが、若い社員の一人が、
「へ~、珍しいですね。いつもは一分の隙もないってほどにピシッと決まっている源さんが、
今日はよほど慌てていたんですね。まるでその辺にあるものを、引っ掛けて来たみたいだ。
源さんでも、そんな事あるんですね。
なんか…僕等と同じ、一般サラリーマンって感じで、ちょっと身近に感じちゃいました」
そんな事を言い。静は、皆の言う「どうしたのですか?」の意味がやっと理解出来た。
「あ、あは、あははは…何言っているんだよ。僕は一般サラリーマンの一人だよ。
それも、中途採用だからね、年だけは皆より上だけど新入社員と変わらないよ」
そんな事を言いながら、そそくさとその場を立ち去る。そして、急ぎその足で洗面所に駆けつけた。
鏡に写った自分の姿を見る。背広、ワイシャツ…ネクタイも曲がっていない…普通だ。普通だが…何処か違う。
だが、静には何処がどう違うのか分からなかった。それでも、いつもと違う気がする。
今、自分の目に写っているのは……昔の自分? どうして?
「うそ!どうしたの?」
「うん、ちょっと寝坊してね、慌てて引っ掛けてきたから…」
「そうだよね、だって上下別々だし…いつもの源さんと全然違う。
でも…ちょっと面倒みてあげたい…って感じで可愛いかも知れないけど」
「冗談…言わないでくださいよ。明日はきちんとして来ますから……」
「そうだね…私たちは源さんの有能さを知っているけど、相手にはちょっと見くびられるかも」
「そうですね…」
静は小さく頷きながら…はっきり理解した。自分にはどう違うのか解からないが、見た目が変だという事が…。
でも、昔はこうだったはず。さっき、鏡に写っていたのは昔の自分。それが変わってきたのは、何時頃からだろう。
そう言えば…以前言われた事があった。センスが悪い、色彩オンチ、服装オンチ?……と。
それでも、背広にワイシャツ、ネクタイは、高校の制服と同じようなものだと思うから。
無難な色の背広に白のワイシャツ、それにネクタイを何本かパターン化して、交互に着ていた。
それが…意識もしていなかったが、最近はカラーのワイシャツや柄ものが増えて…背広やネクタイも、
気づかないうちに数が増えている。自分では買った覚えもないのに…なぜ?
会社から帰るなり寝室に飛び込み、カバンをぽいと放りだし、
背広にネクタイ、ワイシャツまでも脱ぎ散らかしたまま、静はごろりとベッドに寝転んだ。
すると直ぐにドアが開き、愁が顔を覗かせる。 愁は、静の脱ぎ散らかした衣類に目を留めると、
あ~ぁ、という顔で、背広をハンガーに吊るしワイシャツを丸めて、クリーニング用の袋に入れ。
それから、ただいまも言わないで寝室に入り込んだ静に声をかけた。
「どうしたんですか、先輩。機嫌が悪そうですね。帰りも随分早いけど、なんかあったの?」
「べつに……何でも無い」
静は、幾分不貞腐れたように顔を背けると、プイと窓の外に目を向ける。
その様子が、慰めて欲しいと言わんばかりで…愁は、それが可愛らしくも可笑しくて…。
「そんな訳無いでしょうよ。ただいまも無しで、いきなりのふて寝は何でも無いとは言いませんよ」
そう言いながら、ベッドの端に腰を降ろすと静の頭に手を載せ、髪を撫でる。だが静はどうしたというのか、
「別に気にしなくて良いよ。ほっといてくれ」
そう言うと、またも愁の手を振り払うと枕を抱えて丸くなってしまった。
いつもなら、この辺りで機嫌は直る筈なのにかなり機嫌が悪い。愁は思い当る事があるかと考えてみるが、
朝出て行く時は、「行ってきます…」のキスまで交したのだから、当然心当たりなど無かった。だから、
「そんな事言われても気になりますよ。もしかして、何か嫌な事でもあったの?」
今度は肩に手を伸ばし、静の身体を自分の方に向かせようとした。すると静が、またも愁の手を振り払い、
いきなり、がばっと起き上がると愁に向き合う。そして、
「じゃ言うけど、愁はもう僕の事なんかどうでも良くなったんだ!」
静にしては滅多にないような強い口調で言った。だが愁には、その剣幕も然ることながら、
何より静の言っている意味が解らない。それでも、機嫌が悪いのは自分が原因らしい事だけは判った…が、
それがどうしてなのかさっぱり解らない愁は、
「はぁ…。でも、いきなり訳の解らない事を言い出して、一体どうしたっていうんです?先輩」
と、愁にしてみれば、呆れた、「はぁ…」と言ったのが、静には肯定と受け取られたのか、
「やっぱりそうだ!もう僕の事なんか何とも思ってないんだ!」
断定するように言うと、愁を見つめる目がみるみる潤みだす。そして、愁の驚いたような目が静を見つめ。
【あららら…涙まで浮かべちゃって……もしかして、本気でそう思っている?】
静の変な思い込みが半分可笑しくもあったが、そんな素振りは隠し一応真面目な顔で聞iいた。
「そんな事あるわけ無いでしょうに。なんで、そう思うわけ?」
だが静は、よほど嫌なことでもあったのか益々機嫌を損ね、
「もう良い! ほっとけよ!!」
言うなり、今度は布団に潜り込み頭まで隠れるほど、布団を引き上げてしまった。
何が原因なのか判らないが、今布団を引きはがしても恐らく静は何も言わないだろう…そんな気がして、
愁は、静が少し落ち着くのを待つことに決めた。だから、
「先輩…お茶でも入れておくから…落ち着いたら一緒に飲みましょうよ」
そう言うとドアを閉め、寝室から出て行った。
後に残された静は、布団に潜り込んだまま身体を丸め、ギュッと目を閉じていた。
そうしないと、溢れてくる涙を止められない。
訳もなく悲しかった。愁の顔を見た途端、それは堰を切ったように溢れ出し、辛くて、悲しくて。
どうしようもない不安と苛立ち…そんなものに押し潰されそうな自分が嫌だった。
自分の方が年上なのに、いつも愁に我が侭を言い甘えてしまう。
そんな自分は、いつかきっと愁の重荷になって…やがて見捨てられてしまう。
そんな事を考え始めると、涙は止まるどころか益々湧いてきて、布団から出る事が出来なかった。
今日、会社に着くなり最初に掛けられた言葉が、「おはよう」ではなく、「あら…どうしたんですか?」 だった。
それからは会う人毎に同じ言葉を投げかけられて、返事に困った。
自分では、どうもしない…いつもと同じ…はずなのに…なぜ皆が同じことを言うのか解らなかった。
だが、若い社員の一人が、
「へ~、珍しいですね。いつもは一分の隙もないってほどにピシッと決まっている源さんが、
今日はよほど慌てていたんですね。まるでその辺にあるものを、引っ掛けて来たみたいだ。
源さんでも、そんな事あるんですね。
なんか…僕等と同じ、一般サラリーマンって感じで、ちょっと身近に感じちゃいました」
そんな事を言い。静は、皆の言う「どうしたのですか?」の意味がやっと理解出来た。
「あ、あは、あははは…何言っているんだよ。僕は一般サラリーマンの一人だよ。
それも、中途採用だからね、年だけは皆より上だけど新入社員と変わらないよ」
そんな事を言いながら、そそくさとその場を立ち去る。そして、急ぎその足で洗面所に駆けつけた。
鏡に写った自分の姿を見る。背広、ワイシャツ…ネクタイも曲がっていない…普通だ。普通だが…何処か違う。
だが、静には何処がどう違うのか分からなかった。それでも、いつもと違う気がする。
今、自分の目に写っているのは……昔の自分? どうして?
「うそ!どうしたの?」
「うん、ちょっと寝坊してね、慌てて引っ掛けてきたから…」
「そうだよね、だって上下別々だし…いつもの源さんと全然違う。
でも…ちょっと面倒みてあげたい…って感じで可愛いかも知れないけど」
「冗談…言わないでくださいよ。明日はきちんとして来ますから……」
「そうだね…私たちは源さんの有能さを知っているけど、相手にはちょっと見くびられるかも」
「そうですね…」
静は小さく頷きながら…はっきり理解した。自分にはどう違うのか解からないが、見た目が変だという事が…。
でも、昔はこうだったはず。さっき、鏡に写っていたのは昔の自分。それが変わってきたのは、何時頃からだろう。
そう言えば…以前言われた事があった。センスが悪い、色彩オンチ、服装オンチ?……と。
それでも、背広にワイシャツ、ネクタイは、高校の制服と同じようなものだと思うから。
無難な色の背広に白のワイシャツ、それにネクタイを何本かパターン化して、交互に着ていた。
それが…意識もしていなかったが、最近はカラーのワイシャツや柄ものが増えて…背広やネクタイも、
気づかないうちに数が増えている。自分では買った覚えもないのに…なぜ?

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三章 愛はアダージョで Who is it?
「フジワラ――――!」
ドアが開くなり雷のような麗華の声に、でかい図体に可愛いエプロン姿で、愁がキッチンから顔を出すと、
怒りで頭から湯気でも出そうな勢いの麗華と、その後で苦笑している二人の姿が目に入った。
「お帰り~♪ ありゃ…その様子じゃ…ダメだったの?」
言いながら、思った以上の予想どおりの展開に、思わず声に笑みが浮かぶ。それが益々麗華の怒りを買い、
「あんたのせいでしょうが!あんたの!!
なんて事をしてくれたのよ。子供を丸め込むなんて汚い手使って、芹華の将来、どうしてくれるのよ!!」
柳眉を逆立て、烈火の勢いで捲くし立て愁を睨みつけた。
そんな麗華に、愁はトレイに載せた4人分のお茶をテーブルに置きながら、今度は真面目な口調で言った。
「ねぇ、麗華さん…芹は麗華さんの子供だよ。あんたの良い処を全部受け継いで産まれてきたんだよ。
そんな芹の将来が、不安な訳ないじゃないか。頭は良いし、将来は美人間違い無しだし。
性格だけはあんたに似ないで素直で可愛い。こんなに全部揃っていて、まだ、何が足りないと言うんだ?
俺、あんまり言いたくないけど、麗華さんほどの女の人は今まで見た事なかった。
けど…そんなあんたでも、その辺の平凡な母親と同じ目で子供を見ているのかと思うと、驚いてしまうよ。
芹は大丈夫だって、なんと言ったって俺と先輩が育てているんだからさ。
信用してやりなよ…芹の事。 あんたの子供の事をさ」
だが麗華は、憤怒治まらぬのか、ボフッと音をたて椅子に座るとギロッと愁を睨む。そして、
「あんたが育てているのが、一番心配の元でしょう! あんたって、バカっぽいし…それに……。
もういいわ、今更どうにもならないから…。 それで?何処の学校なの? どうせ近所の公立でしょう。
だったら、塾だけはきちんと通わせなさいよ。あと、ピアノ、それと英語も…それから…なんだっけ…」
ふて腐れたように言うと、今度は習い事の羅列を始めた。
すると、事の張本人でもあり共犯者でもある芹華が、麗華の横に座り麗華の手を取る。
「ママ…大丈夫だよ。お勉強は愁ちゃんが教えてくれるから…。愁ちゃんは凄いんだよ。
何でも知っていて、知らない事無いんだよ。愁ちゃんの頭はコンピュータと同じ。
芹も頑張って、愁ちゃんみたいになるようにお勉強する。だからママ、心配しないで」
一生懸命麗華に説明?する…が、麗華の愁不信は、そんな事では拭えないらしく、反対に芹華の手を握り。
「芹華、そんな事を言っていたら後で困るのは芹華なのよ。それに、藤原が教える事なんて…。
どうせロクな事じゃないでしょう。今回の事で良く判ったでしょう? だから、塾だけは……」
と、尚も塾通いを芹華に解く。 愁は涼しい顔で、自分の入れた紅茶を満足そうな顔ですすり。
それまで、黙って聞いていた静が流石に見かねたのか、さりげなく愁をフォローする言葉を口にした。
「麗華さん、藤原くんは学校の先生だよ。それに、教師になるのに必要認定試験を、
たった二ヶ月で取っちゃったんだよ。 あっ!でも 英語だけはまだだっけ。
でもね…藤原くんは、麗華さんが思っているよりはるかに優秀なんだよ。今も、ただ、それを見せないだけでさ」
「11科目取得?それも二ヶ月で? そんなバカな事有るわけ……」
「それがあるんだよ。藤原くんはそれが出来るんだ。だから、芹華の勉強に関しては心配要らないと思う。
下手に塾などに行くよりずっと安心だよ。事実今の芹華は、小学校3年程度の問題なら理解できる。
特に勉強させている訳ではないけど、日常の生活の中で教わっているからね。
それに、芹華の事を一番考えてくれているのは…多分、藤原くん。
僕にはそれが良く解かっているから、何も心配していない…大丈夫。僕はそう思っているんだ」
静が言うと、麗華はうさん臭そうな顔で静の顔を見つめていたが、ふと何かに思い当ったように、
今度は、少し不安そうな目を愁に向けた。
「………ふじわら…あんた、何者? 藤原…って、まさか…あの藤原兄弟……」
言いながら、その表情は半信半疑の態で。愁は持っていたカップをテーブルに戻すと、その手で自分を指さし、
「俺?俺は、藤原愁…芹のお父さんで、先輩の夫になりたい人…かな?」
答えた愁の返事で、麗華の表情が、呆れた……そんなふうに変わった。
そしてそれは、どこかホッとしたようにも見えた。それから大袈裟な程の大きさで、はぁ~と溜め息を吐いた。
「バカ…やはり、あんたはバカだわ。でも…そのバカのおかげで救われているのかな…私たち親子は。
なんか…今日は無駄に疲れてしまったわ。 それじゃ、私は帰るけど…入学式の連絡はしなさいよ。
それとあんた…でかい図体にひらひらのエプロンは似合わないわよ。気持ち悪いから止めなさい。
どうせなら、静にさせたら? 多分似合うだろうし、あんたも喜びそうだわ」
憎たらしい捨て台詞を言い残して帰って行った。
麗華の姿が消えた途端愁と静は顔を見合わせ、苦笑を浮べ。芹華は嬉しそうに愁の手をとって、
ぶんぶんと振りながら聞く。
「ヤッター! 愁ちゃん、芹もあっちゃんと同じ学校に行ける?」
その顔はとても嬉しそうで、まるで天使さながらの可愛らしさで今にも飛び上がりそう。
【こんな顔で喜ばれたら…麗華の嫌味など屁でもないな】 愁は心の中でそんな事を思いながら、
「あぁ、行けるぞ。あっちゃんの処に行って、一緒に行けるって教えてくるか?」
芹華の頭に手を載せて、面接での功績を称える?ように言ってやる。すると芹華が待っていた…と、ばかりに、
「うん!芹、行ってくる。 あっちゃんも喜ぶかな」
そう言いながら、元気に飛び出して行った。
その小さな後姿を見送りながら、ホッと一息吐く愁に、静が笑みを含んだ声で言う。
「ずいぶんと思い切った事、やってくれたね。名門私立は学力もそうだけど、家庭環境を重視するからね。
でも…おかげで顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたよ」
「えっ? 芹の奴、なんか言ったの?」
「色々とね。僕達の普段の生活を全部暴露してくれた。僕が愁に甘えているとか、子供みたいだとか。
良い子良い子していたとか、挙句に可愛いとか…。そんな事まで、芹華に言っているのか?」
言いながら愁を掬うように見上げる静の目元が、ほんのりと朱を帯びて…。
愁は、思わず押し倒そうになるが、芹華がいつ戻って来るか判らない状況ではそれも出来ず、
ぶんぶんと頭を振って、静の疑惑と自分の衝動を振り払う。
「そんな事、言っていませんよ。いくらなんでも、一応教育上…言えません!」
「それじゃ、なんで? まさか…僕たちの事を見て……いた? 幾らなんでも……それは、無いよね」
「いや あいつの事だから、有得るかも。 だとしたら、いつ見ているんだ?あいつ」
「………」
「………」
二人顔を見合わせ…互いに互いより大きな溜息を漏らすと、寝室に鍵を…同じことを考えていた。
「フジワラ――――!」
ドアが開くなり雷のような麗華の声に、でかい図体に可愛いエプロン姿で、愁がキッチンから顔を出すと、
怒りで頭から湯気でも出そうな勢いの麗華と、その後で苦笑している二人の姿が目に入った。
「お帰り~♪ ありゃ…その様子じゃ…ダメだったの?」
言いながら、思った以上の予想どおりの展開に、思わず声に笑みが浮かぶ。それが益々麗華の怒りを買い、
「あんたのせいでしょうが!あんたの!!
なんて事をしてくれたのよ。子供を丸め込むなんて汚い手使って、芹華の将来、どうしてくれるのよ!!」
柳眉を逆立て、烈火の勢いで捲くし立て愁を睨みつけた。
そんな麗華に、愁はトレイに載せた4人分のお茶をテーブルに置きながら、今度は真面目な口調で言った。
「ねぇ、麗華さん…芹は麗華さんの子供だよ。あんたの良い処を全部受け継いで産まれてきたんだよ。
そんな芹の将来が、不安な訳ないじゃないか。頭は良いし、将来は美人間違い無しだし。
性格だけはあんたに似ないで素直で可愛い。こんなに全部揃っていて、まだ、何が足りないと言うんだ?
俺、あんまり言いたくないけど、麗華さんほどの女の人は今まで見た事なかった。
けど…そんなあんたでも、その辺の平凡な母親と同じ目で子供を見ているのかと思うと、驚いてしまうよ。
芹は大丈夫だって、なんと言ったって俺と先輩が育てているんだからさ。
信用してやりなよ…芹の事。 あんたの子供の事をさ」
だが麗華は、憤怒治まらぬのか、ボフッと音をたて椅子に座るとギロッと愁を睨む。そして、
「あんたが育てているのが、一番心配の元でしょう! あんたって、バカっぽいし…それに……。
もういいわ、今更どうにもならないから…。 それで?何処の学校なの? どうせ近所の公立でしょう。
だったら、塾だけはきちんと通わせなさいよ。あと、ピアノ、それと英語も…それから…なんだっけ…」
ふて腐れたように言うと、今度は習い事の羅列を始めた。
すると、事の張本人でもあり共犯者でもある芹華が、麗華の横に座り麗華の手を取る。
「ママ…大丈夫だよ。お勉強は愁ちゃんが教えてくれるから…。愁ちゃんは凄いんだよ。
何でも知っていて、知らない事無いんだよ。愁ちゃんの頭はコンピュータと同じ。
芹も頑張って、愁ちゃんみたいになるようにお勉強する。だからママ、心配しないで」
一生懸命麗華に説明?する…が、麗華の愁不信は、そんな事では拭えないらしく、反対に芹華の手を握り。
「芹華、そんな事を言っていたら後で困るのは芹華なのよ。それに、藤原が教える事なんて…。
どうせロクな事じゃないでしょう。今回の事で良く判ったでしょう? だから、塾だけは……」
と、尚も塾通いを芹華に解く。 愁は涼しい顔で、自分の入れた紅茶を満足そうな顔ですすり。
それまで、黙って聞いていた静が流石に見かねたのか、さりげなく愁をフォローする言葉を口にした。
「麗華さん、藤原くんは学校の先生だよ。それに、教師になるのに必要認定試験を、
たった二ヶ月で取っちゃったんだよ。 あっ!でも 英語だけはまだだっけ。
でもね…藤原くんは、麗華さんが思っているよりはるかに優秀なんだよ。今も、ただ、それを見せないだけでさ」
「11科目取得?それも二ヶ月で? そんなバカな事有るわけ……」
「それがあるんだよ。藤原くんはそれが出来るんだ。だから、芹華の勉強に関しては心配要らないと思う。
下手に塾などに行くよりずっと安心だよ。事実今の芹華は、小学校3年程度の問題なら理解できる。
特に勉強させている訳ではないけど、日常の生活の中で教わっているからね。
それに、芹華の事を一番考えてくれているのは…多分、藤原くん。
僕にはそれが良く解かっているから、何も心配していない…大丈夫。僕はそう思っているんだ」
静が言うと、麗華はうさん臭そうな顔で静の顔を見つめていたが、ふと何かに思い当ったように、
今度は、少し不安そうな目を愁に向けた。
「………ふじわら…あんた、何者? 藤原…って、まさか…あの藤原兄弟……」
言いながら、その表情は半信半疑の態で。愁は持っていたカップをテーブルに戻すと、その手で自分を指さし、
「俺?俺は、藤原愁…芹のお父さんで、先輩の夫になりたい人…かな?」
答えた愁の返事で、麗華の表情が、呆れた……そんなふうに変わった。
そしてそれは、どこかホッとしたようにも見えた。それから大袈裟な程の大きさで、はぁ~と溜め息を吐いた。
「バカ…やはり、あんたはバカだわ。でも…そのバカのおかげで救われているのかな…私たち親子は。
なんか…今日は無駄に疲れてしまったわ。 それじゃ、私は帰るけど…入学式の連絡はしなさいよ。
それとあんた…でかい図体にひらひらのエプロンは似合わないわよ。気持ち悪いから止めなさい。
どうせなら、静にさせたら? 多分似合うだろうし、あんたも喜びそうだわ」
憎たらしい捨て台詞を言い残して帰って行った。
麗華の姿が消えた途端愁と静は顔を見合わせ、苦笑を浮べ。芹華は嬉しそうに愁の手をとって、
ぶんぶんと振りながら聞く。
「ヤッター! 愁ちゃん、芹もあっちゃんと同じ学校に行ける?」
その顔はとても嬉しそうで、まるで天使さながらの可愛らしさで今にも飛び上がりそう。
【こんな顔で喜ばれたら…麗華の嫌味など屁でもないな】 愁は心の中でそんな事を思いながら、
「あぁ、行けるぞ。あっちゃんの処に行って、一緒に行けるって教えてくるか?」
芹華の頭に手を載せて、面接での功績を称える?ように言ってやる。すると芹華が待っていた…と、ばかりに、
「うん!芹、行ってくる。 あっちゃんも喜ぶかな」
そう言いながら、元気に飛び出して行った。
その小さな後姿を見送りながら、ホッと一息吐く愁に、静が笑みを含んだ声で言う。
「ずいぶんと思い切った事、やってくれたね。名門私立は学力もそうだけど、家庭環境を重視するからね。
でも…おかげで顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたよ」
「えっ? 芹の奴、なんか言ったの?」
「色々とね。僕達の普段の生活を全部暴露してくれた。僕が愁に甘えているとか、子供みたいだとか。
良い子良い子していたとか、挙句に可愛いとか…。そんな事まで、芹華に言っているのか?」
言いながら愁を掬うように見上げる静の目元が、ほんのりと朱を帯びて…。
愁は、思わず押し倒そうになるが、芹華がいつ戻って来るか判らない状況ではそれも出来ず、
ぶんぶんと頭を振って、静の疑惑と自分の衝動を振り払う。
「そんな事、言っていませんよ。いくらなんでも、一応教育上…言えません!」
「それじゃ、なんで? まさか…僕たちの事を見て……いた? 幾らなんでも……それは、無いよね」
「いや あいつの事だから、有得るかも。 だとしたら、いつ見ているんだ?あいつ」
「………」
「………」
二人顔を見合わせ…互いに互いより大きな溜息を漏らすと、寝室に鍵を…同じことを考えていた。

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